今回は目黒大円寺の本堂のお写真です 目黒のお話も目黒不動尊、蛸薬師とで三つ目の場所になりますが、その中でもこの大円寺はJR目黒駅に近く、行人坂だけは少し歩くのが大変ですが、周囲にはホリプロ新本社ビルや目黒東京雅叙園など有名な場所もあるため、道に迷うこと無く参拝に伺えます このお寺の開山は江戸初期に大海法印によるもので、その後、天海僧正により目黒不動と合わせて江戸城の裏鬼門となり、比叡山から伝教大師(最澄さま)の作と伝わる三面大黒天さまが祀られました (この最澄さまの三面大黒さまとは別に天海僧正の作と伝わる家康公のお顔がモデルとされる神君大黒さまも祀られています) また江戸大火の1つである行人坂火事によって亡くなった数千から1万人とされる方々を供養するための五百羅漢像に手を合わせることもできます この大火とは別に、大円寺には火事による悲恋の話もあり、それが歌舞伎などで演じられてきた『八百屋お七』です 1683年、本郷駒込に住んでいたお七は火事で家族と共に近隣の円林寺というお寺に避難し、そこで吉三というお寺の小姓をしていた男の子と出会い恋をします 程なく火事は鎮まり、お七たち家族は家の再建に戻るのですが、恋しているお七はいつも吉三のことばかりが頭に浮かんでしまい、吉三は寺という特別な場所に居るため簡単に会うことは出来ず、恋の病に苦しんでいきます そんなお七は火事になればまた吉三に会えると思い込み、ついに本当に放火をしてしまい、火事は大事になるまえに鎮火されましたが、江戸時代での放火は殺人や強盗と並ぶ凶悪犯罪であるため、どんな理由があれ裁きは死罪です これによりお七は16歳の若さで、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑となり亡くなりました 自分のせいでお七が罪を犯し亡くなったと悔いた吉三は、剃髪して僧籍となり西運と名を変え、お七のため、そもそもの大火で亡くなった人々を供養する事と合わせ、当時、身を寄せていた明王院(いまの雅叙園あたり)に念仏堂を作る勧進のため、西運は普段の修行だけでなく自分だけの特別な行として、目黒不動から浅草の観音堂(浅草寺)まで往復10里(約39キロ)の道のりを徒歩で念仏を唱えな続けることを1万日行うという、1万日参りの修行を始めます 西運は雨の日も風の強い日も、念仏と歩みを休むことなく往復し続け、27年の歳月にして悲願を果たし1万日参りも念仏堂の建立も果すことができました その満願の夜、夢枕にお七が現れ、弔いに感謝を伝え成仏できた姿を彫ったとされるのがお七地蔵で、明王院は明治の廃仏毀釈により廃寺となりましたが、今の大円寺の念仏堂として受け継がれ、阿弥陀如来像と一緒にお七地蔵も納められていますので、西運像と一緒にお堂の外からですが見ることが出来ます 色々な想いも歴史も感じられるパワースポットですので、古き人々への供養をしながら、目黒不動のお詣りの行き帰りなどに、お立ち寄りしてみては如何でしょうか
