常々思う事は、神という存在は、見えない・現実視界や眼に映らない・触れられない等々により誤解され易い存在となっているのだと感じます。 各国の神話等は神!本物の神が記したものではなく、例えば実在した天皇を神と崇めさせる為にその時代の勝者が書き記した人間の著作に他ならない…とも言えますが、 決して神話や伝承、神の書なるものを否定している訳ではありません。 それを信じる事は自由ですから…… しかし、これだけは誤解を解いておきたいな!と常々思う事がありますので、ここに記させて頂きます。 神という存在は、現世に生きる者たちを動物・人間等々種族に関わりなく魂の者たち…として捉えられておられ、その在り方は、可愛らしい者たち・護り救うべき者、導く者たち…という感覚のみで視ておられます。 要するに神から成させる天罰というものは本来神の考え・感覚にはあり得ないものなのです。 この天罰という考え方は欲望を持つ魂の者の考え方そのものです。 ただ、天罰なのかな?と思える状況がある場合、それが導きにおいて、あなたが成したことに責任だけは取らなければならない事柄なのですよ、それを成される事により佳き方向への道が開かれる…という導きの一環で如何にも天罰とも言える状況が展開される現実があるのかも知れませんが、それは導かれている本人が、救われる為には為さねばならぬ事として自覚している……それはきっと、他人から見れば天罰覿面!となるのでしょうね。 でもそれは全く違っていて、その人が救われる為の、自分の希望する自身になる為の、やってしまった事への償いに他なりません。 やってしまった事を全部なかった事にしてやり直そう・導きを受けようとしても、そんな都合良い話はあり得ません。 しかし、人間の課す罪の償いや実刑とは次元の違う救いへの導きが成されるという事です。 ここで言いたいのは、神は魂の者を罰しようとは思っていない、罰する!という感覚・考えすらない事を知って戴きたいのです。 ただ、自分が救われるには自分がした事への責任を果たす・現実に救う事が必要!と導かれるのみです。 罰する…という感情はなく、神の考え・感覚・思いの中に全く存在していないのです。 そして神は救われたいと願う者、導かれたいと願う者、幸せに佳き人生としたい、なりたい者になりたいと神に願ってくださる者たちに最上の救いを与えます。 存在するは、護り救い導く…のみです。 罰するは欲望を持つ魂の者の考え方です。 神は恐れるものではなく、畏れるものなのです。 どうか、願ってください!どんな感情でも神に訴え聴いて戴いてください。 その時には絶対に自身を損なう考えをやめてください!自分という生贄を捧げるのはやめてください。 神は生贄を欲しはしない、捧げなければならないモノを欲してはない!それこそが人間の欲望が作り出した社会と地位の在り方に神を利用した姿です。 ただ、神に感謝し御奉納とされるのであれば本当に喜ばれます。 現世のお金関連は神には関係なく、ご本人が感謝の気持ちを込めて奉納された物ならそのお気持ちを戴く…という事です。 高額、高価!そういう観点でご奉納されても本来の神そのものには何の効果もなく、そこにどんな心が込められているかで様々をお受け取りになられます…それこそが欲のなす事 ただ、人間・魂の者が神の世界に触れ成す為には、やはり蝋燭や感謝の気持ちを表す何某か等が必要となるので神事には現実にそれなりのお金が掛かります事をご承知頂かなくてはならない範囲があります。 しかしそれはお賽銭や神社ご祈祷料や個々での必要料のみとなります。 神は願ってもらわなければ救いたいと思っても救いという行動に出られない…です。 何故かというと、傍目にどれだけ大変!不幸と思っても本人がそれを幸せと感じているならば、本人の意向を無視して神の判断で成す事は過ぎた干渉であるとされるからです。 幸せと感じ心充ちる状態は本人にしか分からない事だからです。 幸せの形、幸せと感じる心は個々それぞれ、神であっても他者は入り込めない感覚なのです。 だから願います! どんな悪感情、呪感情であっても、神を頼り救われたい・導きが必要と思われるのであれば、心の総てを神に訴え救いを願ってください。 それがどんな願いであっても天罰というモノは絶対にありません。 どうか、どういう事でも行き詰まっているなら、自分がどうなのか分からない時、どうして上手く行かないのか等々、お近くの神社・神宮へお運び頂き…是非とも神に願ってください。 神は、様々な魂の者達の気持ち、心を尊重しようと、願ってもらわなければ動かない、願って貰った事を救いとして行くように!と動かれます。 どうか、現実で成せない!悔しさやどうにもならない事柄等々あれば、ご自身を汚す前に神に心素直に率直な救い・導きを願って頂きたく、記載しました。
