死して去る者、忘却の彼方に……とは申しますが、それは世代が移り変われば当たり前の事ですね。 でも、共に生きた世代の中では思い出として息づく存在となります。 しかし、それを思い出とは出来ないでいる者もいる……それを実感したのは、本当にその立場に立って日々を過ごす事となってからです。 主人が私独りおいて逝ってしまって15年以上。 看病も3ヶ月弱という本当に突然の出来事に完全テンパって、亡くして10年間は出来る限りをした!と自分に思い込ませ、気持ちを慰める毎日でした。 そんな中、ご近所の80歳近いご婦人から、10年経っても何年経っても悲しく哀しい…と呟くように言われるのをお伺いし、亡くした皆々がこの思いを秘めて生き続けているのだと思い知らされました。 先に逝った者勝ちだよなぁーーとは思いながならも、この数年、当時の自分を慰める為の後悔ではなく、まるで未だ活きている主人に対して思う後悔が様々浮かんで来るようになりました。 それを思うことすら、苦しい悲哀だったのに…… お盆って、時が穏やかにもたらしてくれる心の変化を実感する時節であり、悲哀の中で生き活きる者たちの為にあるという、そういう意味だったんだなぁ〜〜と、やっとこの数年、心から思える様になりました。 自分の生涯で本当に大切!と思える方々との別れは心引き裂かれる悲哀となりますが、時は穏やかにゆっくりと経済的に、現実に、切羽詰まった気持からの変化をもたらしてくれます。 過ぎゆく時の大切さ、その過ぎゆく毎日を、心壊しながら悲哀に苦しみながらも、息をし食べ寝て働く毎日の、過ぎゆく「時」というありがたさを思います。 逝くとか去るとか、相手が人間であれペットであれを問わず、居なくなってしまわれる別れ…に苦しむ思いを、この気持を、この体験を、この「時」のもたらす穏やかな救いが、その最中に居る方々に少しでもお伝え出来たら…と思い、ここに記載しました。 私が、あの、ただただ、食べる事さえ自分の心への裏切りに感じてしまっていた頃に、近所のご婦人の、あのひと言で、私だけじゃないンだ…とハッ!としたように…… 楽しげに、また毎日を淡々と暮らしている様にしか見えてなかった人々の中に、その悲哀を心に秘めて心弱く、しかし強く生き活きている人々が居ることに気付けた様に…… 今年のお盆も、今まで拒絶して来た逝ってしまった方々への、思い出したくもない嫌な思いも含めて、少しずつでも思い出と出来る、心の豊かさを頂いた「時の救い」に感謝しながら…
