友人のご尊父様が亡くなられた。 92歳だとお聞きし、天寿をまさに全うされたのだと思う。 「必ず」─ それは「死」に際することのみに当て嵌(は)まる言葉だ。 人は必ず人を卒業する。 そして生きとし生けるもの全てに、やがてその生命の卒業式の案内が訪(おとな)う。 カラオケが好きで、特に台詞入りの楽曲を好みお寿司が好物で、生前頼まれ仕出しの握り寿司を友人が買い遠路はるばる差し入れた後、 「─もっとたくさん食いたい」と些(いささ)かの不満を漏らしたと云う。 思わず声を立て笑った。 そう─ 人の満足が「食」に終始する証だ。 昭和39年東京オリンピック─ 日の丸を背負い、嘱望されたマラソンランナー「円谷幸吉」さんをご存知だろうか。 彼の遺書を拝読していただきたい。 実に様々な食に関する、馳走(ちそう)に際しての深い深い感謝の念を窺い知ることが出来る。 握り寿司を選び届けた友人は、紛れもなくお父様に「馳走」をしたのだ。 明らかに嗚咽に耐え潤む文字のやり取りの向こう側の優しい彼の心痛を慮(おもんぱか)りながら、亡き父を思い出していた。 亡くなる3日ほど前、病院に見舞うと看護師さんが、 「─お父さん、すごいですよ。普通の人の倍以上を召し上がります。」そう言いながら私を見て笑った。 流動食のお代わりを促す父の様子を想像し笑いながら涙が出た。 生きようとしていたのだ─。 恐らくはごくわずかな余命を感じ知りながら、それでも「食」に縋(すが)り、父は間違いなく自らまだ延命しようとしていた。 人は長く生きれば生きるほど、たくさんの「卒業」を見送らなけばならない。 つまりそれが「使命」であり「宿業」なのだと思う。 肺炎を患い入院を余儀なくされ、しかし長くは苦しむことなくご逝去されたお父様に、そしてその大きな業を乗り越えようとしている彼に心から掌を合わさせていただきます。 だいじょうぶ。 お父さんは、君の差し入れてくれた寿司の味を大事に噛み締めながら旅発った─
