「早春賦 」(第ニ幕) 例年になく短い梅雨が駆け抜けた後は猛暑が続いていた。 あまりの蒸し暑さにまんじりともせず朝を迎え、杖を支えにしながら不機嫌に建てつけの悪くなった縁側のガラス戸を開け放った。 思うように動かせない躯のせいにしてもう何年もほったらかしにしている狭い庭には、いつだったか年末の老人会でボランティアの若者たちにもらった鉢植えのシクラメンも跡形もなく朽ち果て、どこから根づいたのだろう、露草が小さくそれでも鮮やかな青い花をポツリポツリ覗かせている。 「─まあ、ひどい庭だわねえ。草ぼうぼうで」咳き込みそうになるのを危うく抑えて呟いた。 年中で一番しんどい季節にうんざりする思いだ。 ちょっと油断すると、むっとする湿度が去年急に発症した喘息を誘い出そうとする。通院もかかさずきちんと薬を飲んでいるにもかかわらず病状は中々改善されない。 一度咳き込みが始まるとひどい発作につながってしまう事も多くなり最近は吸入薬が手放せなくなっていた。 「─ホントにやだねえ。煙草も止めたのに。年寄るってのは」ゆっくり浅く深く呼吸を整えながら呟くと明菜はもう一度寝なおそうとベッドに向かった。 枕もとの古いデジタル時計を見るとまだ六時になったばかりだったが、ゴミ出しの日なのか近くで女たちの挨拶を交わす声が聞こえてくる。 汚れ物もあるから、と何とか自分でまとめていたゴミ出しも今はすっかりヘルパーの雅代に任せてしまっている。 あの日以来二人の関係はますます親密なものになっていた。 しばらくして雅代も元の職場に復帰すると明菜はそれまで何となく敬遠していた携帯電話を持つようになった。 雅代に伴ってもらい購入したものだ。月、木の訪問日以外でも緊急の時すぐに連絡できるように、と雅代に強く勧められた。 『あのね、何かあったらすぐに電話するんだよ』そう言われて購入したその晩、早速雅代に電話した。呼び出し音を聞きながら明菜は遠い昔、電話で初めて会話した時のときめきを思い出した。 自宅にある今時珍しい黒電話は週に一度雅代の勤める事業所と、月に一度の老人会からの連絡以外鳴ることはほとんどない。 自ら誰かに電話するなど本当に久方ぶりだ。 『─どうした!?何があった!?』驚いた風に出た雅代に、 「─へへへ、いやね。本当に出るかと思ってさ」明菜は悪びれもせず赤い舌を出して笑った。 以来、他愛のない会話を楽しみに寝しな毎晩のように電話するようになった。 雅代もそんな明菜を受け入れたのはやはり寂しさからなのだろう。彼女は事件以来福顔だよ、と褒めていた笑顔を見せなくなっていた。 雅代が「結婚詐欺」に遭ってから一年以上が過ぎていた。 相手の男はその道では余程の手錬れ(てだれ)で、雅代が出逢った時には既に複数の被害届から指名手配されていたのだった。 IT関連の実業家を称した優男で被害者のほとんどが持ち金は勿論、中には動産不動産まで失い多額の借金までして男に貢いでいた女性もいたのだと言う。 「─卑怯な野郎じゃの。人の好いあんたの心の隙間に入って、とんだ悪さしてからに」明菜ははらわたの煮えくり返る思いでしゃくり上げている雅代の大きな掌を包み込むように握り締めて言った。 「─ごめん、な、さい、ごめんな、さい─」雅代は顔を上げずに、そう絶え絶えの声で幾度も詫びつづけた。 「─何だよ、何であんたが謝るんだよ。かわいそうにねえ─でもさ、考えてごらんよ。まだ、そんくらいの被害で良かったんだよ。何とかあんたも無事だったしさ、金はまた貯めればいいんだからさ─。なんも悪いことしてない善人なんだ。きっとまたいいことが還ってくるさ─」明菜がそう慰めると雅代は声を張って天を仰ぎ、またオンオンと泣き出した。 騙し取られた金は100万円だと言う。虎の子に違いなかった。 金は使えば湯水のごとく消えて無くなるが貯めるのは本当に大変だ。 心細い年金暮らしをしている明菜には失った金の大きさが十二分に分かる。 しかも雅代は金以上に大切なもの、まさに自分の人生を賭そうと信じていたものを瞬時に失ってしまったのだ。 男は二人のデート現場に突然現れた複数の警官に囲まれ、あっという間に目の前で連行されてしまったと云う。雅代も同行を促され事情聴取されたのだと聞かされた。 「─さぞやショックだったろうに。─ホントにしなくてもいい、嫌な経験をしちまったねえ」明菜は心底同情してそう言った。 「─どうだい?今度もぜんぜんダメかい?」新聞の紙面に張り付くようにしている雅代の背後から声を掛けた。暫くの間のあと、 「─ダメだぁ。かすりもしてなかったぁ」深いため息と一緒に絞りだすような声を上げ、雅代が汗ばんだ顔を回して明菜を見上げた。 「─よし、ならジャンボだッ、サマージャンボがあるよッ」そう明菜が声を張った。 何とかして失ってしまった金を取り戻そう、と最近になって二人は月に二度お金を出し合って宝くじを買うことにしていた。買う枚数は10枚と決めていた。 テレビで見たくじで大当たりした人の統計とやらを明菜が提言した。 『当たったら、どうする?』最近の二人のテーマだ。 雅代は今のキツイ仕事をさっさと辞めて、夢だった定食の店を開くんだと言い、明菜は整った老人施設への入居資金にする、と言った。 毎月当選番号の載った新聞記事を首っ引きに、 「─けどあんた、月に一度くらいは会いにきておくれよ、ね」明菜が言うと、 「当たり前でしょ、何かおいしいもん作ってくわよ。何がいい?」と真顔で雅代が返し、二人とも皮算用よろしくしかし半ば本気でそんな会話を交わした。 「─こんなのホントに当たった人いんのかなぁ」雅代が口を尖らすと、 「だってこないだもテレビに出てたよ。もう何度も大口に当選したって言ってさ、金ピカの服着て金ピカのこんなに大きな財布持って、何だか偉そうにしゃべってたよ」明菜が応えた。 「─ふうん。─ねえ、そんなことよりさ、アッキー。あのさ少しでいいから、クーラー入れてくんない?」雅代が今にも滴り落ちそうな汗を手の甲で抑えながらうんざりしたように眉間に皺を寄せた。 「あ、ああ、ごめんよ。ならさまた咳き込むとやだからフィルターをきれいにしてからにしておくれ。─ホントにやだねえ、じっとりして。夏なんて来なくていいのに」言いながら明菜も首筋に吹き出た汗をガーゼのハンカチで拭った。 数日後の朝早い時間、けたたましい音量で鳴り響くミッキーマウスマーチにたたき起こされた。 寝ぼけまなこで着電の相手を確かめると、やはり雅代からだった。 「─んん?何だい、一体、─こんなに早く」おぼつかない呂律で電話口に出ながら時計を見るとまだ六時にもなっていない。 『ああ、当たったッ!あああ、当たったよッ!』出た途端、興奮した雅代の声がまだ眠りかけのぼんやりした耳に轟いた。 「─え、と─48組,と─ふんふん。─あってる。それから、─1,0,2と─」明菜の声にかぶせて、 「102、665ッ!ね!当たってるでしょッ!?ねッ!?」鼻息荒く雅代の声が明菜の耳元で響いた。 「─痛ッ、やだ、ちょっと、耳が痛いよ。鼓膜が破れちまう」ぶ厚い老眼鏡をずり下げて、明菜が振り返った。 「あ、ごめんごめん、でもほら、ね!?間違いないでしょッ!?」汗ばんだ顔を更に上気させて雅代が繰り返す。 「─うん。ホントだねえぇ─」嘆息交じりにそう呟くと、明菜はしばしの間ぼんやりと雅代の顔を見つめた。 「なに!?どうしたのよ?うれしくないのッ?一千万だよッ!?ねえ、一千万ッ!!」頭のてっぺんから出たような甲高い声で雅代が叫んだ。 「─ち、ちょっとちょっと!よしなよ、近所中に聞こえちまうじゃないか」明菜が慌てて制すると、 「─あ、ご、ごめん。だって、アッキーったら、ねえったら、うれしくないの?」雅代はじれったさを抑えきれない風に声をひそめた。 「─嬉しいに決まってんだろ。─けどさ決まってんだよ、いつも─」急に声の調子を下げ目線を落とし明菜が呟くように言った。 「─え?なに?」怪訝な顔で雅代が聞きなおすと、 「─もう、何べんも見てんだよ。こんなような夢をさ。本気んなって喜んじまうとさ、決まっていっつも目覚めちまうんだ」身じろぎもせず明菜が応えた。 「やだ、なあに?なに言ってんのよぉ!今度は夢なんかじゃないんだからぁ!ほらッ─」雅代はそう言いながら、明菜の頬を軽くパンパン、と張った。しばらくの間の後、 じっと雅代を見返したその目から突然、涙が零れ落ちた。 「─あ、ごめんごめん。痛かった?力加減が下手だからごめんねぇ─」慌てて雅代が取り成そうとすると、 「─良かったぁ」大粒の涙をボロボロこぼしながら飛びつくように明菜が雅代に抱きついた。 「─悔しかったんだよぉ、ホントにぃ、─あんたがつらい目にあってからさずっと、ホントに悔しかったぁ、─あんた好い人だからさぁ、─だから、ねえ、ちゃんと還ってきたよぉ、良かったぁ─」しゃくり上げながら明菜が涙声で繰り返した。 「─アッキー─」ありがとう、雅代はそう応えかけたが声にならず、明菜の躯をギュッと抱き返した。 「─イタタタ、止めてよ、死んじまう─」明菜が思わず顔をしかめると、 「─あ、いけない、ごめん、ごめんね」そう言って慌てて華奢な明菜から離れると、本当に久方ぶりの笑顔を見せた。 ─以下、三幕へ
